ボイスタンプ
   

山手線 大崎駅 白いハンカチ

題:白いハンカチ
声:加藤忍、鈴木一功
文:香取俊介

  五年ぶりで会う父はチェックのブレザーに時代遅れの緑のアスコットタイをつけていた。
「よう、万里、元気か。ちょっと太ったかな」
まるで昨日会ったような気軽さで声をかけてくる。良くも悪くも、これがわたしという存在の源である。
大崎駅の南口からゲートシティにつづく通路を、娘と父はゆっくりと歩いた。
「母さん、元気か」
「うん。喫茶店だけじゃやってけないんで、お酒も出すようになったの。お父さんは、まだイカサマやってんの?」
「人聞き悪いこというなよ。イカサマは二年前のオツトメでやめた。極北会とも完全に切れたしな」
「ヤクザとそんなに簡単に縁きれるの?」
「万里、断っとくけど、お父さん、ヤクザとつきっちゃあいたけど、ヤクザじゃねえぞ」
「わかってる。お母さん、いってた、ヤクザになれるような度胸もないって」
「アイツ、相変わらず毒舌だな」
「ね、お父さん、何食べたい?わたし、ボーナス出たから、おごる」
「いいって」
「人のいうこと、素直に聞けよ」
「お前、だんだん母さんに似てきたな」

父と娘はゲートシティにある南仏料理の店に入った。
「それで、相談てなんだ?」
「お父さん、今、一人なんでしょ?」
「まあな」
「真奈美さんとは、どうなったの?」
「一年前、大阪へ行くって出てって、それっきりだ」
「また暴力ふるったんでしょ。お父さん、口より手が先にでる人だから」
「断っとくけど、真奈美には一度も手をあげたこたアないよ。金の切れ目が縁の切れ目だ……」
「お父さん、定職につかないからよ」
「俺も、真人間になろうと思ってサ、知恵しぼったんだけど……冷たいね、オツトメした人に、世間の風は」
「今、どんな仕事してるの?」
「ときどきペンキ塗りしてるけど、リュウマチわずらってから、きつくて……」
「お父さん……どうかな、再チャレンジっての」
「何に再チャレンジすんだよ」
「お見合い」
「バカいってんじゃないよ」
「お父さんにぴったりの人いるんだけど」
「お前、おちょくってるのか親を」
「ちがうって。お父さん、昔よくいってたじゃない、人間、チャレンジ精神失ったらダメだって」
「そんなこといったかな」
「いいました。わたしが高校受験落ちて死にたいってゆったとき
《真理、チャレンジだよ。生きるってことはチャレンジだ》って、どやしつけたじゃないの」
「お前の親父もけっこういいこというじゃないか」
父は口を大きくあけて笑った。下の奥歯が全部銀歯になっていた。
「ね、だから、お見合にチャレンジしよう」
「しかしな。お父さん、経済力もないし、学もないし、職もない。あるのは二年のオツトメだ」
「ちゃんとつぐなったんだし...... わたしだって、このままじゃ悲しい」 「......」
「口惜しいけど、なんてったって‥‥なんてったって、わたしのお父さんなんだもん」
「苦労かけたな、万里。お父さんのこと、覚えていてくれただけで、嬉しいよ。泣きたいほど嬉しい」
「......」
「でもな、正直ゆってテメエの食い扶持(ふち)扶持(ふち)かせぐのがやっとなんだ。見合いなんかとんでもねえよ」
「相手に経済力があれば問題ないでしょうが」
「そんな女が俺みてえな男と見合いするワケねえだろ。お前、頭はいいけど、社会勉強がちーっと足んねえな」
「お見合、する気はあるのね。どう?イエスかノーで答えて」
「まあ。ものはためしってこともあるけどよ」
娘は携帯をとりだし素早くメールを打ちだした。
「おい、万里、ちょっと待てよ。早すぎるよ」
「もう、年なんだしサ、後がないんでしょう」

きっかり10分後。淡いピンクのワンピースを着た小太りの女性が店にはいってきた。娘が手をあげ、
「お母さん、こっち」
左右に振りながらいった。
母の表情にはゆるぎがなく、背筋もまっすぐに伸び、真っ白な真珠のイアリングが大きく揺れている。
父は立ちあがり、母を真っ直ぐに見て、
「おい、飯食ったか」
飯、食ったか。
それは、昔、仕事で疲れて帰ってきた母に、無職の父がよく口にした言葉だった。母はまじまじと父の顔を見つめた。
「あなた...... 昔のまんま......」
父が昔、癖のようにいっていた言葉が、今母の胸底でたゆたっていたなにかを揺さぶったようだ。父はすべてに中途半端なダメ男であったけれど、家庭料理だけはなかなかのものだった。
「二人とも湿った顔しないの。はいメニュー!値段の上限なしだからね。私のおごりだから」
「親がなくとも子は育つっちゅうけど、ほんとだな」
「なにいってんの。『父がなくても子は育つ』これが正しい言い方」と母はいった。娘がメニューを父と母の間に突き出した。
「早く料理きめて。一番高い料理頼んでね」
ちらっと母を見ると、まるで嘘のように頬に涙の筋がついている。
父の手がジャケットのポケットにいき、白いハンカチをとりだした。母に向かって真っ白いハンカチが怖ず怖ずと動く。
もしかして、母は父のハンカチを受け取らないのではないか。
お願い。受け取って。
目を閉じ小さく念じた。
目を開けた。
母の手に真っ白いハンカチが確かな存在感を誇示するように握られていた。
まぶしかった。
母の節くれ立った手に、真っ白い麻のハンカチは似合いすぎるほどよく似合っている。